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タバスコを日本へ持ち込んだ男 燃える闘魂アントニオ猪木の話

燃える闘魂 アントニオ猪木もブラジルと関わりを持っております

猪木


タバスコは猪木が初めてブラジルから日本に持ち込んだ、なんて有名な話がありますが



実は少年時代に家族でブラジルへ移住した移民の一人なのです

知ってた?




wikipediaより引用

生い立ち
神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。5歳の時に父親は死去。第二次世界大戦後、エネルギー源が石炭から石油に変わったこともあって実家の石炭問屋は倒産した。

12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り(長兄は同行せず。祖父は渡航中に船上で毒性のあるまだ青いバナナを食べて死去)、サントス港を経由してサンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。

ブラジル移住
ブラジルへ移住した最初の1年半は、農場であまりにも過酷な労働を強いられた。コーヒー豆などを収穫する作業が中心だったが、作業のたびに手の皮がずる剥けになり血まみれになっていたという。1年半の契約だったため逃げることはできなかった。あまりにも過酷なため、作業が終わり与えられた電気も通っていない小屋に戻り着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。猪木の精神力と基礎体力はこのブラジルでの生活で強く培われたと言える。

幼少時代は運動神経が悪く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」と呼ばれていた程であったが、ブラジルへ移住してからは陸上競技選手として砲丸投げなどで活躍し、その身体能力をいかんなく発揮する。なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で退部。その後現地の陸上競技大会の砲丸投げに出場して優勝。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。

プロレスデビュー
1960年4月11日にサンパウロで興業を行っていた力道山から「日本に行くぞ」と直接スカウトされ、そのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団した。猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っている。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという(後日談であるが、猪木の肉体は全盛期のルー・テーズにそっくりだったため、力道山もそこに目を付けたと言う。デビュー後に外国人トレーナーからもオファーが殺到したと言う)。



ブラジルには4、5年程おられたようでポルトガル語はもうほとんど覚えていないとか↓

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1021481525

ちなみにブラジルのwikiによると祖父母はブラジルで生まれたとあります

兄のヒロヤス・イノキは空手松濤館の8段でリオデジャネイロに道場を持っており、あのK-1のLYOTOが一時期居候していたとかいないとか

とりあえず日系人カテゴリーにいれときます

[ 2010/08/21 03:55 ] アントニオ猪木 | TB(0) | CM(0)
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