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Jに来たブラジル人たち①

1993年に日本のプロサッカーリーグは産声をあげ

今日 日本ははワールドカップ4大会に出場する、アジアを代表する国へと成長しました

その中でJリーグでプレーする外国人選手の存在というのは、間違いなく日本サッカーの発展に大きく貢献したと言えるでしょう

そしてそのJリーグでプレーする外国人で一番多いのはブラジル人選手なのです



10数年の歴史の中で、何百人という名選手が海を越え地球の裏側からやってきました

結果を出した人、出せなかった人、日本じゃあまり知られていないかもしれないけど

ブラジルサッカーファンにとってすごい興奮するような、めちゃくちゃすごい人が日本に来ていたんですよね 実は

そんな人たちをピックアップする企画






まずははこの人







ジーコ アントラーズ時代
ジーコ

なんでこの人が日本来たんだ!?

高校の文化祭にローリング・ストーンズを呼ぶみたいなもんですよ! 

住友金属・ナイスジョブ

ミットフィルダーなのに州で5回、ブラジル全国で2回得点王になってます

セレソンでも88試合66ゴールという驚異的な数字を残しておりこれは歴代4位です

この人はもうブラジルでは神扱いです











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ベベット

見た目全然サッカーうまそうじゃないですけど、メチャメチャすごい人です

ワールドカップに3大会出場し、特に94年にはロマーリオと世界最強のツートップと言われ、ワールドカップブラジル優勝に大きく貢献しました

世界最高峰リーガエスパニョーラでも得点王になっております

そんな大物が鳴り物入りでアントラーズに入りましたが1得点だけして4カ月で退団・・・

当時の監督であったトニーニョ・セレーゾが、結果の出せないベベットを使い続けることで鹿島のチーム内の雰囲気が悪くなったそうですが

ブラジルサッカー界殿堂入り級の選手を簡単にベンチに置いておくことはできなかったんでしょうね











ベベットとは対照に短期間で結果をだした人はこの人

エジムンド ヴェルディ
エジムンド

ヴェルディの緊急補強要因で迎えられ、見事降格危機を救いました

97年にブラジル選手権で得点王とMVPをダブル受賞

一試合6得点を挙げた伝説を持っております

実力はすごいがパーソナリティーにかなり問題があり

イタリアで優勝争いしている時にカーニバルで帰国したり

自分の好きなチームから点をとりたくないと言って、わざとPKを外したり

飲酒運転で事故って過失致死容疑でパクられたりしてます












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レオナルド

日本へ初めて来た現役のブラジル代表

フリューゲルス戦のリフティングシュートは今も日本人の脳裏に焼き付いているでしょう

10代にしてフラメンゴのトップチームにデビューし

ベベットやジーコらといった偉大な選手と供にプレー

また次にプレーしたサンパウロでもライー、ミューレル、カフーなどといった代表クラスの選手らと協力し全国選手権優勝の美酒を味わっている

その活躍が認められセレソンへたどり着く

94年アメリカ大会ではなんとあの名手ブランコをベンチに置いて左サイドバックとして出場

翌98年大会にも中心選手として出場した

カナリアのユニフォームを着て60試合をこなし8ゴールを挙げています










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羽賀研二 ジョルジーニョ

1980~1983はまさにフラメンゴの黄金期であり

同クラブからやってきたジョルジーニョもその黄金世代の一人でした

その後ドイツへ渡り、ブンデスリーガで6年間もの間プレー

世界にその名を知らしめ、いつしか人は皆彼のことを"世界最高の右サイドバック"と呼びました

日本でもレオナルドと供にアントラーズの黄金期を築き日本サッカーの発展に貢献しました

現在はドゥンガ率いるセレソンのアシスタントコーチになっています











現役ブラジル代表キャプテンがJに来たこともありました

ドゥンガ
ドゥンガ先生

足は遅いし、足元もそれほどうまくはなかったが

強靭なフィジカル、ミスのない堅実なプレー、抜群のキャプテンシー

その存在感は抜群でした

世界的に有名になったのは90年のイタリア大会のために招集された時

当時ブラジルは過去2大会の敗戦から"美しいサッカー"から"勝つサッカー"へシフトチェンジが求められていました

そこで当時、ハードマークに定評のあったドゥンガが国民の期待を一身に背負い出場したのです

しかしブラジルはマラドーナ率いる宿敵アルゼンチンに屈辱的敗退を喫し、ドゥンガはA級戦犯扱いされてしまいます

ブラジル国民から総スカンを喰らい、一時期は国を背負って戦うことに疑問を感じるも

翌94年大会では世界ナンバーワンのチームのキャプテンとしてアメリカの地でワールドカップを掲げることができたのでした

98年自身最後のワールドカップでもそのキャプテンシーを遺憾なく発揮

ボールを持ちすぎるロナウドに容赦なく渇を入れたり、壁に入らなかいベベットに頭突きを食らわせたりと、その姿はまさに鬼軍曹そのものでした

セレソンでの記録は97試合7ゴール
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